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2001年
古都鎌倉 古都鎌倉に居る息子の所に行ってきた。孫娘の誕生祝のた
めの訪問である。鎌倉は一年中観光客で賑わっていますが、
今日は天気にも恵まれ神社仏閣で萩の可憐な花を観賞したり
している。団体客でいっぱいでした。こんなすばらしい歴史
のある鎌倉も米海軍横須賀基地を拠点とする空母キテーホー
クの艦載機の訓練の時には、この上空を飛んだそうです。嫁
も二人目の赤ん坊がお腹の中におり、隣の逗子には米軍兵士
の住宅もあり、不安な毎日ですと言っておりました。米同時
多発テロ事件は絶対に許されないものですが、小泉首相は米
国の軍事報復作戦に対し、自衛隊の参戦を中心にした支援策
を表明しています。そのために憲法に違反している「ガイド
ライン法」を拡大解釈したり、新規立法も国会提出を予定し
ています。武力による報復ではテロ問題は何も解決しません。
法と理性にもとずいてテロ根絶という本来的な課題に力を尽
くすべきではないでしょうか。

鉄山―金山 いつの頃から「カナヤマ」と呼ぶようになったのだろうか。
万葉集に「尓比多夜麻」(ニヒタヤマ―新田山)という言葉
が出てきますが、今の金山だろうと考えられています。では
何故「新田山」が「金山」と言われるようになったのか、そ
れは何時頃からなのか。鉄の生産と関係がありそうです。奈
良から平安時代にかけて東今泉の菅の沢と長手に製鉄炉がつ
くられ、さかんに鉄の生産が行われていたことが発掘でわか


りました。鉄の生産にとって必要な、砂鉄、炭、技術者集団
という条件が、この金山周辺にはそろっていたのです。特に
技術者集団については、古墳時代からのハニワの制作、土師
器、須恵器の制作、須恵器の制作には高温を必要とするため
高度の技術と組織を必要とし、その蓄積の結果として鉄の生
産が可能になった。鉄は武器や農耕具として大和朝廷の東北
支配の道具として、ますます高まる需要に答えるために増産
しました。そして「金山」となったのです。

ハンセン病 ハンセン病訴訟の原告勝訴は、ほんとうにうれしいニュー
スでした。政府の隔離政策の人権無視の実態と患者たちの悲
劇。そして患者の中に日本共産党支部の活躍と、党員のひた
むきな確信にみちた姿には大きな感動をおぼえました。江戸
時代中頃、今から250年程前、東北八戸の「安藤昌益」と
いう町医者が、嬬恋村の「中居屋重兵衛」という代々庄屋を
しながら、ハンセン病の治療にあたってきた医者に大変感動
したという資料が残されています。安藤昌益は「自然真営道」
という著書で、徳川幕藩体制、士農工商という身分制の支配
を批判し、生産している大多数の農民の働きに対して、彼ら
の生産物を搾取して、貪り食っている「不耕孝貪食の徒(ふ
こうどんしょくのと)が支配者であるときめつけ、農耕と農
民こそが最も尊いもので、身分秩序をなくし支配や搾取のな
い社会をつくっていくことを説いています。弱者の人権が真
に保障される社会という願いは、国民が主人公の政治への選
択です。



2002年
グローバル「グローバル」という言葉を最近よく見聞きするようになり
ました。「地球規模」のという意味ですが、ますます悪化の
一途をたどっている地球環境の深刻化にともなうものです。
足尾鉱毒事件にはじまって、水俣病、阿賀野川水銀中毒、四
日市ぜんそく、イタイイタイ病に代表される公害事件。その
多くが局地的、散発的であったのに対し、およぶ範囲がます
ます拡大して、環境全体へ影響を与えるようになりました。
オゾン層の破壊、炭酸ガス等の排出増加による地球温暖化、
ダイオキシン問題、産廃物の不適切な処置、熱帯多雨林の減
少、砂漠化、生物種の絶滅増加など、どれをとっても事象が
複雑かつ大規模であり、その因果関係についての人々の理解
もそれほどすすんでいるわけではありません。多国籍企業の
利益優先先や米国流のグローバル化では、もはや問題解決に
はならず、弱肉強食でなく持続可能な世界、人間が尊重され
る民主的な社会をつくろうという新たな動きがでてきていま
す。
市場の大榎「市場の大榎(おおえのき)」といわれている、市場の大ケ
ヤキ(1981年8月26日太田市天然記念物に指定)が、
矢場川のほとり市場町二区「憩いの家」隣、琴平宮の正面に
その巨大な勇姿をみせています。樹高23メートル、根本回
り約13・8メートル、樹齢500年以上で、3本に分かれ
て根元が大きな空洞になっており、地元では神木として崇め
られ、その途方もない重量感に圧倒されます。ケヤキはニレ


科の落葉喬木で、防風林として樫グネと共に昔はどの家にも
植えられておりました。私の家にも西側と北側に高い樫グネ
と、2本のケヤキの巨木がありましたが、戦後の区画整理で
伐採されてしまいました。「上州のカカア天下と空っ風」と
いわれますが、冬から春にかけての季節風にはほんとうに悩
まされます。防風林としての樫グネとケヤキは私たちの前か
ら姿を消しつつありますが、空っ風は吹き続けています。地
球温暖化防止のためにも、この空っ風を風力発電に利用すべ
きであると考えます。

構造改革 長引く不況でリストラにデフレが加わり、さらにそれに追
い討ちをかける医療費の改悪。国民に負担を押しつける小泉
流「構造改革」で、国民生活は塗炭の苦しみ。一層の深刻さ
を増し、四苦八苦です。仏教の根本原理の一つ「一切皆苦」
といって、この世界は苦しみに満ちていると仏教では考えて
います。もっとも基本的な苦は四苦といい、生、老、病、死
の四つが挙げられます。このうち、生苦はこの世界に生まれ
てくること自体が苦とみること。愛別離苦―愛する人と別れ
る苦しみ、怨憎離苦―いやな人と会う苦しみ、求不得苦―欲
しいものが得られない苦しみ、五陰盛苦―すべてのものは苦
しみに満ちている、の四つを加えて八苦とします。合わせて
「四苦八苦」です。最初の四苦が個としての必然的な苦悩で
あるのに対して、後のものは人間関係、あるいは物との関係
に関するものです。物との関係の苦しみの解決は、国民が主


人公の政治の選択以外にはありえないのはもちろんです。

野麦峠 太田にも「野麦峠」があった。実際そう呼ばれていたわけ
ではありませんが、山本薩夫監督で映画化され有名になった、
長野県奈河村と岐阜県高根村の境にある、乗鞍岳と鎌ヶ峰と
の間の「野麦峠」と同じ役割を果たしていたのが、強戸の菅
塩と桐生の広沢を結んだ「菅塩峠」です。戦後の農地改革ま
では、小作だけの農家が五割を占め、全耕地の7割近くを1
%の地主が所有し、小作料は収穫の半分というひどいもので
した。そのため、養蚕、糸繰り、機織り(ハタオリ)などの
副業や出稼ぎ、日雇いなどから現金収入を得たり、二、三男
や娘を奉公や女子工員として出し、「口減らし」を図らざる
を得ませんでした。娘たちが桐生に機織り女工として、菅塩
の脇を通り「菅塩峠」を越えて、広沢の「加茂神社」の所へ
出て、それから各工場へとわかれていったのでしょう。「野
麦」を知っていますか。都笹という種類のササの実の別名で、
皮はうす赤く、中に白い実があり、食用になります。

地下工場 常楽寺にある「半鐘」は、先の大戦の最中、梵鐘やあらゆ
る金属類とともに武器をつくるために強制的に供出させられ
ましたが、奇しくも本堂の新築落成記念日に、半鐘だけが帰
ってきました。昭和20年4月末、強制連行された中国人2


80人が長野の木曽谷から転送され、中島飛行機の地下工場
を築造していた鹿島組藪塚事務所に使役され、終戦までの3
カ月半で50人が死亡するという惨事が起きました。
 彼等の住んでいた住宅の一部の柱に取り付けられ使用され
ていた半鐘が、終戦後しばらく放置され、柱が腐って倒壊の
危険があるために消防署員が回収し、強戸小学校に持ってき
たそうです。偶然その時対応したのが、当時強戸小の先生を
していた常楽寺の住職さんで、同寺の半鐘であることがわか
りました。5月27日、中国人強制連行藪塚と月夜野(間組
利根川・後閑事業所)両事件の生存者、遺族が前橋地裁に訴
訟を起し、日本政府と企業に対し、謝罪と賠償を請求しまし
た。



2005年
高射砲陣地「イオン・セキチュー」の南側、台の郷幼稚園の子どもたち
が植樹した奥の芝生の中、直径約4・5メートルの低い円柱
形のコンクリート製の高射砲の台座があります。
 この記念碑は、平成15年に、市の埋蔵文化財課で発掘調
査され、6基の砲台が見つかりました。6基の砲台は約24
メートルの間隔で扇形に配置されており、その1台を残した
ものです。第二次大戦のとき、航空機を撃墜するために太田
では、由良、古戸、飯塚、下小林に高射砲陣地が設置されて
いました。
 暑い夏とともに、60回目の終戦記念日が来ました。日本
がはじめた侵略戦争で、アジア太平洋地域で2000万人以
上、日本人310万人の命が失われました。
 小泉自民党は侵略戦争に対する反省どころか、あの戦争を
「自存自衛」「アジア解放」の戦争だったとし、間違った戦
争観、歴史観を国民に宣伝することを使命とする靖国神社へ
の参拝に固執し、憲法九条を「改正」して、日本を再び「戦
争する国」にしようとしています。

英霊の遺骨 新婚3カ月で出征し、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した
姉の夫の遺骨が昭和20年に帰ってきました。姉は私を奥の
部屋に連れて行き、骨ツボのふたを開けて中を見せてくれま
した。骨ツボには、遺骨ではなく、ミカンの皮と小石一つだ
け入っておりました。姉はどうしても自分一人の胸のうちに


しまっておけず、かといって、親戚の者にも見せるわけにも
いかず、当時小学校2年生だった私だけに見せたのです。英
霊をむかえて涙も見せてはいけない時代でした。姉の無念さ
が伝わってきます。
 アジア太平洋戦争において戦没した日本軍人・軍属の総数
は約230万人にのぼります。その過半数は、戦闘行為によ
る戦死ではなく、食料が補給されないために起きた飢餓地獄
の中の野垂れ死にでした(藤原彰「餓死した英霊たち」青木
書店)。フィリピンでは50万人の死者のうち、40万人が
餓死、東ニューギニアでは9割、中国本土では半数、そして
ビルマのインパール作戦では8割が餓死でした。

ラムサール条約「仙境、尾瀬沼、尾瀬ヶ原」と上毛カルタに詠われ、戦後、
NHKラジオ歌謡として、江間章子作詞の「夏の思い出」が
全校放送され、尾瀬ブームのきっかけとなりました。その尾
瀬が「ラムサール条約」に登録されました。ラムサール条約
は1971年、イランのラムサールで「広く水辺の自然生態
系を保全すること」を目的に締結された、国際湿地条約です。
その第9回締約国会議をアフリカ、ウガンダのカンパラで開
催し、尾瀬や奥日光の湿地など、国内20カ所をあらたに認
定しました。
 日本国内では、釧路湿原など13カ所が条約湿地に登録さ
れていますが、追加登録で計33カ所となりました。尾瀬ヶ
原は標高1400メートルに位置し、東西6キロ、南北2キ


口に展開し、面積8平方キロという広大な湿地であり、日本
最大の山地高層湿地が分布します。ラムサール条約に登録さ
れるような重要な湿地も大切ですが、田圃や河川敷なども、
もっと大切にし、守っていかなければならないのではないで
しょうか。


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