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2006年



憲法九条は 空襲により太田北駅にあった
受楽寺は墓とともになくなり
山門だけが残ったことに象徴されるように
廃墟の中から生まれた

憲法九条は アジア太平洋地域で
二千万人の生命をうばった
日本の侵略戦争の反省のなかから生まれた

憲法九条は 日本の反戦平和の
永い歴史のなかから生まれた
憲法九条は アジア太平洋地域の
人たちの宝物となっている

憲法九条は 人類に与えられた
小さな包みに入った贈り物
人類全体の宝物であり 破壊させては
ならない

光り輝け 憲法九条



リサイクル 観測史上最高の記録的な豪雪による死者100人を超えて
しまいましたが、雪害にあわない地域でも低温などの影響で
キャベツ、レタス、ネギ、ホウレン草などの葉物野菜の生育
が悪く、値上がりで苦しんでいます。そんななかで、我が家
では家庭菜園のおかげで、野菜をほとんど買わずにすむだけ
でなく親類や隣近所へも分けてやれるほど収穫があり、「甘
くておいしい」と喜ばれています。その秘密?は台所の生ゴ
ミや粉糖、雑草、落葉などで肥料をつくり、それを基礎にし
た土づくりをしているからです。有機肥料づくりはゴミの減
量化にも大変効果があり、分別収集による資源ゴミ化とあわ
せて、努力しているところです。高値のせいもあるのでしょ
うが、ネギを1本や2本ずつラップにくるんで売っている店
もあるそうですが、商品の包装類、メール類の多さにはおど
ろきます。ゴミの減量化も個人の努力の限界を感じ、システ
ムを変える以外にないと考えているところです。

保険証 自営業者や年金受給者などが加入する国民健康保険の保険
料を払えない滞納世帯が増えていることが厚生労働省の調査
でわかりました。
 国は、国保料滞納者で1年以上たった世帯から保険証を取
り上げることを市町村に義務付けています。保険証の代わり
に「資格証明書」が発行されますが、いったん窓口で医療費
の全額を払わねばなりません。
 太田市の国保加入世帯は、全体の約半数の3万9118世


帯、滞納世帯は7993世帯、滞納総額24億8000万円。
資格証明書の発行世帯は2236世帯、有効期限を3カ月な
どの限定した「短期被保険者証」の発行世帯は3392世帯
という、おどろくべき数字です。
 政府が1984年に国保の国庫負担を、45%から38・
5%に引き下げたことで、市町村の国保財政は悪化し、国保
料の引き上げが続いています。国保料が払えず、保険証を取
り上げられたために病院に行くのをためらい、命さえ奪われ
る悲惨な実態です。
 国保料滞納世帯の激増の背景には、貧困と社会的格差を広
げている小泉「構造改革」があります。

◇シリーズ◇平和と戦争体験を語る
「竹槍」づくり 沢野国民学校初等科に昭和18年4月に入学した私は、自
宅から2キロ少し離れた学校まで、田圃の中の一本道を通学
しておりました。
2年生の2学期に入る頃から防空頭巾を持って登校しはじめ
てまもなく、B29の偵察飛行が始まりました。はじめての
B29の襲来のときはほんとうに驚きました。偵察飛行とは
知りませんでしたから、上級生の先導で下校したのですが、
稲刈りのすんだ田圃の中ですから隠れるところがありません。
丁度中程まで来た所で敵機が来てしまいました。生きた心地
がしませんでした。そんな偵察飛行が何回かあり、年が明け


て2月10日から空襲がはじまりました。
 小泉の向こうの方にB29が落ちて、鬼畜米英の兵隊が落
下傘でおりてきた話が伝わってきました。「兵隊が落下傘で
降りてきたら、着地する前に竹槍でケツメンドに突き刺すの
だ」という話になり、ナイフ(肥後守か)で一生懸命竹槍を
つくりました。竹の先を鋭くし、少し火であぶって油に浸す
と丈夫になるというので、3年生になった軍国少年の私は、
真剣になって竹槍をつくり、八瀬川橋の下に入って待ち構え
たりもしたものでした。

教育の機会均等 蝋梅の花もおわり、寒かった冬の影響で、やっと梅の花が
咲きはじめたこの頃です。
 春は旅立ちの季節。小中学生、高校生。大学生と新しい人
生をきりひらいていく「ピカピカの1年生」です。一方、費
用を負担する保護者は、不況や景気低迷によるリストラや給
与水準の低下によって家計の収入が減るなか、頭を痛めてい
るところです。
「義務教育は無償とする」と明記する憲法26条や、「教育
の機会均等」をうたった教育基本法3条などによって、小中
学生のいる家庭に学用品などを援助する「就学援助制度」が
あります。太田市の小中学校生は1万8605人、就学援助
受給者は912人で、受給率は4・9%です(2005年度)
。就学援助率(04年度)の全国平均は12・8%で、20
00年度より約37%増加し、都市部ほど高い傾向(文部科


学省)にあるそうです。
 塾などに1カ月何万もかける家庭がある一方で、学用品な
どの支払いもできない家庭の増加をみると、社会的格差のひ
ろがりの深刻さと、教育の機会均等もなしくずしになったの
では、公正な競争社会とは言えないでしょう。

格差社会 今年の桜の花は、気温の関係で例年よりながい期間咲いて
いたので、疲れたのではないでしょうか。新入社員の若者も
何人が気持ちよくお花見ができたでしょうか。
 景気回復基調で新規採用の増加傾向が続き、特に群馬は全
国第2位の有効求人倍率ということですが、その内実は、派
遣、請負や長時間のアルバイトなどの非正規社員が6割を占
めているようです。
 昨年の厚労省の賃金構造基本調査によると、非正規社員の
月額賃金が正規社員に比べて、男性で64%、女性で70%
と、かなり低くなっています。格差は年齢が高くなるほど、
企業規模が大きくなるほど広がっています。全年齢の平均で
は、男性正規社員の場合、34万8100円なのに対し、非
正規社員は22万1300円、女性は23万9200円に対
し、16万8400円で、正規社員、非正規社員による差が
さらに大きい賞与は含まれていません。
 狭き正規社員の門で、若者たちは将来に対する希望を失い、
人生をなかばあきらめたようにも感じます。でもフランスで
は、26歳未満の解雇自由法である「初採用契約」を若者た


ちの行動によって撤回させたという、明るいニュースが伝え
られています。

平和都市宣言 太田市民が誇りに思っていること、大切にしていきたいと
思う3点セットがあります。「平和都市宣言」「平和通り」
そして「平和の塔」です。
 本町通りの交差点から社教センターに向かってのびる「平
和通り」の延長上の、熊野神社の裏手の高台に「平和の塔」
が立っています。昭和61年(1986年)6月の会議で市
議全員の賛成で可決された「平和都市宣言」を記念して建て
られたものです。
「私たち太田市民は、私たちのまちを人間らしい営みができ
るまち 市民一人ひとりが等しく尊重され 希望と誇りをも
ってそれぞれの個性を発揮できるまちにしたいと務めていま
す。しかし 空襲の悲惨さを体験してる私たち太田市民は 
世界の人々を脅かしている核兵器の廃絶なくしてはその努力
が実を結ばないことをよく知っています。私たち太田市民は
 国際平和年にあたり すべての核兵器の廃絶と永遠の平和
の達成を願い ここに『非核平和都市』宣言します。」と厳
かに宣言します。
 5月14日、「『九条の会』アピールに賛同する太田市民
の会」の結成総会が、約170人が出席して休泊行政センタ
ーで開かれました。「戦争の放棄」をうたった憲法九条を守
る活動を広げる「九条の会」と「平和都市宣言」をした太田


市民の心は一つです。

強制連行 太田市民だった多くの人たちが永い眠りについている八王
子山公園墓地の奥の方に、巨大な中島飛行機太田製作所藪塚
地下工場が眠っています。
 この地下工場は素掘りの隧道式で、幅員4~6メートル、
高さ約4メートル、長さ100~300メートル、隧道上の
覆土15~40メートル、隧道と隧道の間隔は約15メート
ルとし、6000坪の作業面積の予定でした。これは軍需省
が計画し、運輸通信省が請負い、さらに鹿島組が下請けして、
昭和20年1月着工、同年10月に完成予定でしたが、半分
程度掘り抜かれていただけで工作機械は設備されず、搬入も
されないまま終戦となってしまいました。
 昭和20年5月「新田郡強戸村部落別家屋人口及び主要食
糧等の調査」で「第二区、西長岡、家屋数126、人口男4
20人、女460人、半島(人)男2600人、女240人、
外人(捕虜)270人」(太田市史)とあります。半島人と
は、日本の植民地だった時期、朝鮮韓国の人たちのことを、
こう呼んでいました。外人(捕虜)とは、強制連行した中国
の人たちのことです。
 現地周辺の人たちの話によると、直接作業に従事した人た
ちは朝鮮韓国の人たち2600人、中国の人たち270人が
10時間交替で働いていました。それに米軍の空襲で工場が
使用できなくなったため、工員の一部数百人が応援に派遣さ


れました。朝鮮の人たちは甘言にのせられ、だまされて家族
で来ていた人たちもいたので、強戸小に何人か通学していた
児童もいました。

母子像 市民会館の南側広場、太田市中央公園の一隅に「母子像」
が建っています。母親はモンペ姿、ズタ袋をさげ防空頭巾を
かぶり、左手でしっかり子どもの手をにぎり、右手で南の方
を指しています。子どもはやはり防空頭巾をかぶり、お守り
袋のついたリュックを背負い、母の指す方を見ています。
 この母子像は昭和52年8月、広田良教育長の撰文で、「
太田市戦災被爆者遺家族の会」会長大越福(おさむ)さんの
呼びかけで、多くの賛同者を得て募金が集められ、建設され
たものです。
 大越さんは福島県郡山市の出身で、太田と同様「中島飛行
機」の工場があったため米軍の激しい空襲を受けました。そ
れによってたくさんの生命が失われた事実を同窓会などで聞
き、憤りを感じ「どの位の人たちが空襲で生命を奪われたの
か」と太田と郡山で調査をはじめられたようです。そして「
民間人の犠牲者には何の援護も与えられることなく過ぎてし
まっている」ことを知り、国会や政治家に対して陳情活動を
展開していったようです。
 それと同時に被爆犠牲者の33回忌ということで、太田と
郡山に慰霊記念の碑を建設するための運動もすすめ、市民各
層の協力を得て「この国の永遠の平和を祈念する」ことにし


たものです。大越さんは、それからまもなくの昭和58年1
2月に71歳の生涯をとじられました。

太田大空襲 太田上空にはじめてB29が飛来したのは昭和19年11
月7日の午後のことであった。「グオーン、グオーン」1万
メートル上空を飛来するB29の、大気をふるわし、大地に
反響した、独特の爆音は61年経った今でも耳の底で鳴り響
いています。年がかわって2月10日太田製作所への爆撃、
4月4日の太田駅周辺への空襲は人的にも物的にも大変な被
害をもたらした悲惨なものでした。以上2回を含めて合計8
回にわたっての空襲にみまわれたことになります。
「太田大空襲」による被害情況にについて戦後、群馬県土木
部都市計画課の調査がありましたが、太田市の罹災戸数、罹
災人口、死者、負傷者は不明(「終戦直後書類破棄のため」)
とあります。被害情況を復元する資料として、米軍関係など
多方面にわたって資料を集められた「太田市史」、九合小学
校の先生だった小林ふくさんの「戦禍に生きた子どもたち」
の記録、昭和19から20年にかけて太田警察署の警察官だ
った利根川靖幸さんが群馬風土記という雑誌に書かれた「太
田大空襲」という一文などがあります。
 これらを参考にして「一覧俵」にしてみましたが、死者に
ついては、利根川さんは「この日(2月10日)の被害は、
太田町、休泊村、矢場川村の1町2村にわたり、重傷43人、
軽傷105人、救護後の死亡47人と発表されたが、爆死者


数の発表はなかった。正確な数がつかめなかったことと、人
心の動揺を考慮したからであろう。私が検視した死体だけで
も百数十体あったから、全体はかなりの数になったと思う」
と書いておられます。実際はどうだったのか・・・。

古希「太田高等学校第十回卒業生同窓会」の開催案内状が送られ
てきました。過去数回の同級会の話なので、「何故だろう」
と思って案内状を読んでみて「なるほど」と思いました。「
70歳」になったからです。
 詩聖・杜甫の「人生七十古来稀也」(古来まれな年齢・古
希)、聖人。孔子の「縦心」(自分の心の欲するままに行動
したとしてもけっして常軌を失することはない年齢)。私も
70歳まで元気でよく生きてこられたなと思います。諸先輩
の方々のなかには、豊かな才能を持ちながら、若くして死ん
でいった人たちもいたでしょう。特に戦争で生命を失った人
たちのことを想うと悲しくなります。
「日清・日露」の戦争から第二次大戦までで太田中学校(現
太田高校)出身者で戦死した方の総数は268人(太田高校
九十年史)。特に「満州事変」のおこった昭和6年度の卒業
生から戦死者が増加し、昭和11年度29人、12年度43
人、13年度36人の戦死者を出し、この3年間は、卒業生
の3人に1人が死んでいったことになります。
 私の同級生のなかには、社会的にそれ相当の地位にあった
人、ある人が多いはずです。優秀な人材が戦争で失われてし


まったのは、ほんとうに残念でならない。

介護保険料の値下げを「平成十八年度、介護保険料特別徴収決定の通知書」が市役
所から郵送されてきました。それによると「あなたの保険料
は第五段階で年額6万4100円です。ただ今年度は激変緩
和措置が適用されて5万5400円に決定しましたので年金
から特別徴収しますので通知します」という内容です。そし
て10月の年金から1万円、12月は9800円と定額支払
い月毎の保険料が記載されています。(2万5800円は徴
収済)
 太田市は4月に65歳以上の保険料を、旧太田市民の場合
33・5%の値上げをしたばかりです。私の17年度の保険
料は3段階で年額3万8400円でした。それが、収入が増
えたわけでもないのに5段階になり、6万4100円になり、
「激変緩和措置」により5万5400円に減額されたわけで
すが、いずれ6万4100円になるそうです。
 保険料が高い最大の原因は、介護保険をつくった時に、国
の負担割合を50%から25%に引き下げたことにあります。
そして今度の値上げ幅を大きくしたのが、国の「税制改正」
にもとづく老年者控除の廃止や住民税の増税です。住民税が
税額の引き上げにともない、通常の保険料値上げ率を上回る
負担増が押し付けられた結果です。この増税を推進してきた
のは、自民・公民の連立政権であり、もともと言い出したの
は公明党です。



高金利の終りを 県埋蔵文化財調査事業団は東今泉町にある「東今泉鹿島遺
跡」から、平安時代の下級役人が上司あてに給料の米の前借
りを願い出たと見られる文章が見つかったと発表しました。
この文章は、漆が乾燥しないように漆の入った土器にふたと
してかぶせた反故紙(ほごし)で、漆がしみこんだために保
存されたものです。文書が出土した遺跡は奈良から平安時代
にかけての集落遺跡で、この文章には「米壱斗を借りたい。
利息とともに十日間で返済する」とあり、裏面には上司が承
認したことを示す「御許(おんゆるし)」と、返済完了を意
味する」「了」の文字がそれぞれ書かれていました。当時の
法令で定められた直属の上司あての書式で書かれていること
や、正倉院で見つかった他の給料の前借り文書と似ているこ
とから、同事業団は給料として支給されていた米の前借りを
申し込んだ際の文書と判断したそうです。正倉院に保管され
ていた「月借銭解(げっしゃくせんげ)」という借金の文書
(奈良時代の経文を書き写す役所、写経所につとめていた朝
廷の下級官吏が国から借金したことを示す文書)によると、
「壱貫文(1000文)を借りて、利息は月に130文、担
保は自分の家と朝廷から支給された平城京内の宅地(140
坪)、口分田3町8反と妻子」という内容のものです。この
ことから東今泉の下級役人の支払った利息は「米一斗の十日
間の利息は米4合少し」となります。映画「草の乱」になっ
た秩父事件の起こった明治時代、「高利貸の貸し方は元金1
00円が1年経つと利息120円になり、元金と利息を合わ
せれば220円になる」という文書が残っています。奈良時
代から千年以上もの間、高金利の時代が続いていたことにな


ります。
 今度の臨時国会で、いわゆる「灰色金利」が撤廃されるこ
とに決まりました。貸金業者に法を順守させ、業界の巻き返
しを許さない監視と、国民の合意の上で、新しい公的な融資
制度をつくり出していくような運動が求められています。

非国民は誰だったのか 20歳の若い頃、東京の王子に住んでいましたが、その頃
あった「日活名画座」という映画館によく通ったものです。
料金も安く、良いものを上映していました。
 太田に帰ってきてからは「草の乱」と、今回の「蟻の兵隊
」位で劇場映画は観なくなりました。映画蟻の兵隊は池谷薫
監督作品で、世界で初めて「日本軍中国山西省残留問題」に
正面から切り込んだ長編ドキュメンタリーです。終戦当時山
西省に居た陸軍第一軍の兵士9000人のうち約2600人
がポツダム宣言に違反して、武装解除を受けることなく中国
国民党系の軍閥に合流、戦後なお4年間、中国共産党軍と戦
い約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました。
 元残留兵の一人奥村和一さんは「自分たちはなぜ残留させ
られたのか」と真実を明らかにするために動きます。同じ残
留兵の仲間から情報を集めたり、中国へ通い続ける中で明ら
かになったのは、当時戦犯だった軍司令官が責任追及への恐
れから軍閥と密約を交わし、「祖国復興」を名目に残留を画
策し、自分たちは身の安全を保障されて日本へ逃げ帰ってい
たことが明らかになります。


 その中で初年兵教育の名の下に、罪のない中国人を刺殺す
るよう命じられ、人間と見れば殺すようになっていった自身
の加害者でもある自分を発見していく姿を追ったものです。
 国民に人間を平気で殺すような愛国心を強制し、従わない
人たちを「非国民」として排除していった思想を再び復活さ
せようとする「教育基本法改正」を許していいのでしょうか。


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