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2007年
シベリア抑留問題 終戦直後に、関東軍の総司令官が日本の捕虜将兵をソ連軍
の使役に従事させてよい、とした資料がソ連崩壊後明らかに
なり、ポツダム宣言など国際法に違反して、60万人以上の
兵士や民間人がソ連の捕虜として連行され、シベリアでの強
制労働を強いられ、6万人以上が厳寒の地で命を落としまし
た。
 岩瀬川町に住む84歳のМさんは、昭和19年4月に召集
され「シベリア抑留者」の一人です。「手足の指が凍傷にか
かり、特に足の指は骨の一部が露出してしまう位ひどかった
のですが、死んだ戦友のことを想うと・・・、失礼」と言っ
て目を真っ赤にしてしまい、聞いていた私も一緒に泣いてし
まいました。
 引き上げ者に慰労事業をしている「平和祈念事業特別基金」
を解散するについて、一人10万円の旅行券を贈ることが決
まりました。現在10万人位の対象者が生存しているようで
すが、国は実態を把握していないそうです。「昭和64年1
月に、銀杯と金一封もらいましたが、これで幕引きですか」
と、さびしそうにうつむておられました。
 賃金を支払われた南方の帰還兵や北朝鮮拉致被害者への補
償と比べ、元シベリア抑留者は償いを受けていない、老齢化
している者に旅行券でどこに行けというのか・・・。

寺子屋 早春に咲くレンギョウの黄色い花を見ると、小学校1年生


に入学したときのことを思い出す。今は孫の次男が新入生に
なるのでランドセルを買ってもらい、背負って部屋の中を走
り回っています。
 明治4年、文部省が設置され、翌年、近代学校制度の大要
を示す学制が発布され、いままで庶民教育を担ってきた私塾
や寺子屋は廃止されました。
 江戸時代から明治初年度まで旧太田市域には85カ所もの
塾や寺子屋がありました(太田市史)。生徒数は十数人から
百人位まであり、主要教授科目は「読み書き・算盤」で、国
学、武術、医術なども教えていたところがありました。師匠
は国学者で有名な「生田万」をはじめ、僧侶、神官、農民な
どで、なかには「遊歴算家」と言われた和算家の金子茂三郎
もいました。
 高林の長勝寺の南側で、モッコリした小山の上に地蔵堂が
建っていて、その横に「算学先生墓」と刻んである小さな石
碑があります。この記念碑は金子茂三郎の教え子たちが、彼
の死を惜しんで後世にその徳を伝えるために建てたものです。
 今でもその碑の前には酒びんが供えられています。おそら
く教え子の孫に当たる人でしょう。庶民教育を担ってきた寺
子屋などを、「禁止令」を出してまでやめさせなければなら
なかったのは、新しい教育制度が富国強兵のため、国家に役
立つ人材を育成することを徹底するためだったからです。

遊水池 今年は暖冬の影響で、ジャガ芋を2月に植えてしまった人


が多かったようです。ジャガ芋はナス科の多年草で南米アン
デス山脈の原産。大航海時代、ヨーロッパに移植され、飢饉
の時、人々を助けた救荒作物です。日本ではサツマイモです。
地球温暖化で農作物の生産が減少するという研究報告もあり
ますが、日本は食料の6割をアメリカなど海外に依拠してい
ます。
 太田の専業農家は1143世帯、全世帯の1・4%。旧太
田市域では409世帯、0・68%(平成16年度52次調
査)にまで減少しています。農地の宅地化、工業用地化、高
速道路を始め、道路、河川や農業用水路の整備などによって、
雨水や排水などが地下に浸透せずに下流に急速に流れ下り、
洪水や地盤沈下を引き起こすということになります。
 それだけでなく、政府の農業政策による農地の荒廃がすす
み、田畑の保水能力の低下もあります。現在、宝泉や沖之郷
で防災などに役立つ「調整池」を造成中ですが、それらをふ
くめて18カ所計画中であり、全部完成すると、面積46ヘ
クタール、満水時貯水能力57・5万立方メートルになりま
す。現在ある市域の「調整池」の数は35カ所、面積34・
6ヘクタール、満水時貯水能力56・5万立方メートルです
から、調整の能力を倍加させるということになります。

太田民報社「もしもし、太田民報社ですか」。「エッ?!ハイ、そうで
すが、何かご用でしょうか」。「今度の太田市議選、共産党
はどなたが立候補しているんですか。おたくの民報社のチラ


シには名前が書いていないもんですから聞くんですが」。「
あなたはどちらにお住まいですか」「え?あ、どなたですか
」。「2人立候補しています。3期目のベテランで伊野文人
と、2期目でまだ独身ですけれども水野正己が立候補してい
ます」。「そうですか、わかりました」。「ありがとうござ
います。どうかよろしくお願いします」。
 そこで電話は切れました。告示の過ぎたある日、日本共産
党の事務所で「しんぶん赤旗」の日曜版の仕分けをしていた
ら、年配の女性の方からの電話でした。
 ふだん私たちは、「太田民報社」という呼び名は使ってい
ないので、「エッ?!」という言葉が出てしまったのです。
受話器を置いて一息入れて仕分けを再開したのですが、「太
田民報社」という女性の言葉を反芻していたら、だんだん感
動というか、よろこびが湧いてきました。
 毎月1回の定期発行のほかに、「太田民報」号外を3号ま
で、数万枚発行しました。「太田民報」の役割りを再認識し
た次第です。

新田郡役所 太田市教委文化財課は16日、同市天良町の天良七堂遺跡
で、奈良・平安時代と推定される新田郡の役所「郡衙(ぐん
が)」建物跡と見られる遺構を発見したと発表しました。確
認された堀立建物跡はわずかにずれて2列に並んでいるので
建て替えが行われたものとみられます。
 遺構は2棟あり、一つは幅4・8メートル、長さ51メー


トル、もう一つは幅5・4メートル、長さ48・6メートル、
直径1・2メートルほどの柱穴が計18個見つかりました。
現在のところ遺構の年代を決定できるような遺物は出土して
いないということです。
 天良七堂遺跡は同市天良町から新田小金井町にかけて分布。
今回の建物の遺構周辺でこれまで5棟の米倉跡や炭化米など
が見つかっていましたが、郡衙の建物跡は見つかっていませ
んでした。この遺跡の東の方には7世紀後半のものとされる
寺井廃寺があり、伽藍配置など詳細は不明ですが、創建期の
出土軒丸瓦は天智朝ころに創建された大和川原寺の系譜を引
くものであり、隣の栃木県、下野薬師寺にもよく似たものが
あります。
 さらに約1・7キロ西には新田の駅家と考えられる遺構が
あり、南800メートルには東山道駅路が通過し、一時期こ
の付近から分岐する「武蔵路」も通っていました。まさにこ
の地域は古代新田郡の中心地であったわけです。今後の発掘
調査の進展が楽しみです。

住民本位「ハイッ!共産党の事務所ですが・・・」「あ!やっと出た。
共産党の事務所ですね。」「そうですが」「午前中から電話
しているんですが、なかなか出なくて、少し話したいことが
あるんですが・・・」。
 しんぶん赤旗の仕分けをしている時電話が鳴りました。「
税金のことなんですが、私は台之郷に住んでいるAと申しま


す。富士重工を定年退職して、今は年金生活ですが、先日、
市・県民税の納税通知書が送られてきて、内容を見てびっく
りして、何かの間違いではないかと思い、市役所に電話した
んです。昨年の3倍以上になっているからです。」
「市の担当者は何と言っていましたか」。「『間違いではな
く国の税制改正により、そのようになりました。申し訳あり
ません。国が決めたことですから』ということです」。「差
支えなければあなたの税額を教えていただけませんか」。「
昨年は3万5400円で、今年は10万6100円です。こ
れを4期に分けて納入しろということです」。「3倍以上の
増税ですね」「ひどいでしょう」
「ひどいもんですね。自民・公明政権が推進した定率減税の
廃止税源移譲による住民税率の引き上げが同時に実施された
ために大増税になったのです。言い出しっぺは公明党です。
65歳以上の高齢者は非課税措置の廃止の影響もあります。」
「今度の参院選では、考えを変えないとだめですね。共産党
の議席を増やして、我々の生活を守ってくださいよ」。「共
産党もガンバリますから、みなさんのご支援を広げてくださ
い」。「ガンバッて下さい」

国民平和大行進 7月も終わろうとしているのにまだ梅雨あけしない日々が
続いています。今年で50回目になる「国民平和大行進」が
7月17日、群馬県平和行進の最後として、いまにも降りそ
うな梅雨空の下、太田市役所を9時に出発しました。


 71歳になってヒザ痛の弱点をもった私は、この全工程を
歩き通す最後の年になるかもしれないという思いで参加した
ところ、長野から碓氷峠で引き継ぎ、群馬県内を通し行進し
てきた唯一の人が77歳の境の女性だったのにはびっくりし
ました。その人の姉という79歳の方から10歳の男子まで、
69人が行進に参加しました。
 上田島の常楽寺で昼食をとり、ハスの咲いた境内をみなが
ら休息をとり、尾島支所に向け出発しました。世良田の長楽
寺で伊勢崎コースの行進団と合流し、上武大橋を渡って利根
川の向こう岸の土手の上で、埼玉に引き継ぎました。市役所
から約18キロ、午後5時の到着でした。昨年の行進は途中
ドシャ降りの雨にみまわれ苦労しました。今年は行進日和で
よかったですが、核兵器をめぐる情勢はきびしいものがあり
ます。
 国連の常任理事国入りをと、核兵器を保有して世界の大国
にのしあがろうという野望を持っている日本の一部指導者の
想いが伝わってきます。それに対して、作家の井上ひさしさ
んら各界著名人が、日本政府に「非核日本宣言」を行わせ、
核兵器の廃絶の促進と、「核兵器を、持たず、つくらず、持
ち込まず」の非核三原則の遵守を宣言させようというのです。
賛成!

宇宙基本法 夏の夜空を見上げるのは、今では打ち上げ花火を見るとき
ぐらいでしょう。あの夜空を彩る天の川やサソリ座などの星


々を眺めて、果てしない宇宙に想いを馳せるなどという余裕
もなくなったのでしょうか。それよりも街灯やネオンなどが
明るすぎて、天の川などは見えなくなっています。七夕祭り
も一般家庭ではほとんどやられなくなりました。
 8月12日夜6時半ごろから、子どもの国児童会館で「ペ
ルセウス座流星群」の観察会が開かれ、父母に連れられた子
どもたちが星空を観察しました。あいにく雲の多い空でした
が、いくつかの流星をみることができました。
 また、太陽と地球、月が一直線に並び、月が地球の影に完
全に入って暗く見える「皆既月食」が28日の夜、天候が良
ければ全国で観られます。大昔から人間は、宇宙で起こる不
思議な現象に驚き、夢と憧れをいだき、宇宙開発をすすめて
きました。
 さる6月20日、自民・公明両党は、議員提案という形で
「宇宙基本法案」を国会に上程しました。改憲をかかげる安
倍内閣は、日本国憲法にもとづく戦後の社会体制自体を変え
るべきだとし、先に教育基本法を「改正」しました。今度は
平和目的に限定していた戦後の宇宙開発の基本方針を「非軍
事」の歯止めを取り外し、軍事利用に道を開く「宇宙基本法
案」を出してきたのです。
 憲法九条を持っている日本は、宇宙の平和利用に徹して、
人々に夢を送り続ける国であってほしいものです。

うば捨て山 うば捨て山ー姥捨山の棄老伝説によるたとえ、周囲から疎


外されて老後を送る所ー(広辞苑)。深沢七郎氏の「楢山節
考」は姥捨て山伝説をもとに小説化し「中央公論」新人賞を
受賞し、映画化もされて注目された作品でした。70歳にな
っても丈夫な歯をもった老婆おりんの、石臼に歯を打ちつけ
て欠いてしまい、口の中が血でいっぱいになるシーンは見て
いられませんでした。
「うば捨て山」といえば、来年四月からスタートする「後期
高齢者医療制度」はまさに「うば捨て山」そのものです。7
5歳以上の「後期高齢者」という医療費のかかる年齢層を他
の医療保険から切り離し、保険料値上げか、医療の粗悪化か、
どちらをとっても痛みしかない選択に追い込んでいく制度で
す。
 ◎今まで加入していた国保や健保を脱退させられて「後期
高齢者医療保険」に強制加入させられます。◎保険料は「年
金から天引き」(年金額が月1万5000円以上の人)され
ます。◎保険料を払わなくてもよかった、家族に扶養されて
いる低所得者も保険料を負担させられます。◎保険料は都道
府県ごとの「広域連合議会」で決められますが、厚労省は全
国平均で月6200円になると試算しています。◎保険料を
滞納した人は保険証を取り上げられます。◎年金が月1万5
000円未満の人は保険料を窓口に納めに行かなければなり
ません。◎65歳から74歳までの「前期高齢者」も国保料
を「年金から天引き」されます。◎70歳から74歳までの
人の病院の窓口での負担は1割から2割に2倍に引き上げら
れます。
「うば捨て山」に捨てられて死ぬのをじーっと待っていろ、
とでもいうのでしょうか。



生品飛行場 陸軍熊谷飛行訓練学校新田分教場は総面積250万平方メ
ートルの生品飛行場で、昭和13年「少年飛行兵操縦教育校」
として建設されました。グライダーでの飛行訓練を行ってお
り、ロープを引っかけたコンクリート製の台座が今でも残っ
ています。飛行機組み立て工場や格納庫なども併設され、そ
れらが爆撃の対象となり、少年飛行兵7人が死んでいます。
昭和20年7月10日の爆撃は特に激しく、続く18日、2
8日の艦載機グラマンの空爆で壊滅的な被害を受けました。
 終戦とそれに続く農地改革による自作農創設により、飛行
場跡地は開拓地として開放され、当時の強戸村、生品村、綿
打村、宝泉村から入植者を募りました。1戸当たり1区画1
・3ヘクタールでした。当初の入植者は158戸、最終的に
は190戸が入植しました。
 昭和28年6月、市村、多村、多村新田、四軒在家、小金、
天良の各村域を割地して、新たに「市野倉」という大字を成
立させました。江戸時代の市野井村原宿に、御蔵堀(年貢収
納施設)があり、同所を「一の倉」(他に二の倉、三の倉あ
り)と呼ばれていた地域なので、「市野倉」としました。
 昭和34年、東側外周道路脇に、開拓入植者のために尽力
した須永好氏の遺徳をしのび、「須永地蔵尊堂」と功徳碑が
建てられました。また、市野倉の南方数百メートルの所に、
「内野霊園」という墓地があり、そこは元火葬場で、空爆で
死んだ少年飛行兵や西長岡の地下工場建設に強制連行された
中国人の死者を火葬にしたそうです。西長岡から死体をリヤ
カーなどで運んだうちの一人である村田のKさんは、死体を
火葬し、その時煙突から煙が昇っていくのを涙を流しながら


見ていたそうです。「戦争なんか二度とするもんでねえ」と
話してくれました。
金山の古今「えびす講」が過ぎると冬の到来です。子どもの頃、えびす
講が来たら足袋をはいてもいいと許可が出ました。寒くなる
と早くえびす講が来ないかなあと思ったものです。
 晩秋のこの頃、太田での紅葉のいい所は運動公園ではない
でしょうか。イチョウ並木の黄葉は特に美しく、北正門から
けやき並木もきれいです。遠くから金山を眺めると、黒っぽ
い山肌の中に、少し茶色い部分があるかなという程度ですが、
山の中に入ってみると、ずいぶん紅葉が進んできたと感じま
す。
 金山も松の木が少なくなってきたと思います。江戸時代、
金山は「御留山」といって、幕府が森林資源保護(金山の場
合は松茸)の目的で設けた占有林で、立ち入ることはできま
せんでした。松茸の出る頃から収穫が終わるまでは特にきび
しく、9カ所ある入山口には番小屋が建設され、小屋が無人
にならないように、交代で監視していました。(太田市史)
 明治6年「地相改正」により、税金が年貢から地租に変わ
り、近代的土地所有になり、約490町歩の金山は民有地に
なりました。それから金山への登山は自由になったのでしょ
うが、中島飛行機群馬製作所の建設で、金山からそれらの工
場がよく見えることから、写生や写真を撮ることは禁止され
ました。夜勤から帰った工員が山腹で友人数人と昼寝をして
いたら、「コラッーお前ら、ここで何をしておるんか」と憲


兵に咎められた話を元行員から聞きました。このように金山
に自由に入山できるようになったのは、戦後になってからと
いってもいいでしょう。
(憲兵隊太田分遣隊は現在の飯田町の国道407号に面した
「太田拘置支所」の所にありました。)


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