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1992年
絵馬 受験シーズンです。近くにある冠稲荷神社に初もうでに出
かけました。たくさんの人出です。本殿に礼拝したあとお守
りを一つ買いました。お札やお守りを売っているそばに小さ
な絵馬がありました。それに希望する高校や大学への合格祈
願やその他いろいろの願い事を書き、掲示板位の大きさのも
のに奉掲するのです。たくさんの絵馬が奉納されていました。
同じ絵馬でも、本殿の内外にかかげられている畳1枚分より
もうすこし大きめのものがやはり絵馬だそうです。そのなか
の一つに私の中学時代の恩師である金井禎助という関流の和
算家の奉納した算額という巨大な絵馬があり、1812年3
月のものだそうです。算額は数字の絵馬で、数学の問題を木
製の額に書いて神社や仏閣に奉納したもので、江戸時代の和
算家は競って算額をし互いに切磋琢磨して研究に励んだそう
です。

古戸河岸 旅から帰ってきて、刀水橋を渡るとき「ああ、故郷へ帰っ
てきた」とホッとすると同時に熱いものが、いつも胸にこみ
あげてきます。そして「広々とした野と、野の果ての山、美
しい祖国」という歌をくちずさんでしまいます。小さな金山
が正面に見え、バックに男体山、日光白根、赤城、榛名、浅
間、妙義、そして秩父連山が大パノラマとなって迫ってきま
す。下を流れる利根川は今では土手を築かれて小さくまとま
ってしまいましたが、昔はもっとダイナミックな流れであっ


たろうなあと想う。明治17年、東京~高崎間の鉄道開通以
前は元船である高瀬舟、艀船(ハシケ)小船、筏、などが行
き交い物資の交流をささえる大動脈として活気にみちていた
であろうことが目にうかびます。左側の石田川と合流する所
に「古戸河岸(フットカシ)」があり、明治14年に木の橋
が架けられるまで「古戸渡(フットワタシ)」として栄えた
所です。この辺り一帯、どんな遊園地にもまさるすばらしさ
と豊富な史跡のある所です。

穀雨「穀雨」―春雨が降って百穀を潤す意―(広辞苑)。桜の花
の開花にあわせたように、いろいろの花がいっせいに咲きは
じめました。まさに百花斎放、百花繚乱という言葉がぴった
りとくるあたりの風景です。その花々の生命のいぶきにせき
たてられるように、庭の土いじりをはじめました。石灰をま
いて土をたがやし、肥料を施して種をまきます。春菊、サラ
ダナ、レタス、インゲンをまきました。そしてショウガ。そ
の隣は3月に植えたジャガイモ。カキナは今取って食べてい
ます。サヤエンドウの花も咲いています。1週間もしないう
ちに発芽するのもあります。植物の発芽の様子を見ていると
「生きている」という実感と「生命」の美しさ、すばらしさ
をヒシヒシと感じます。そして、これらの「生命」をいただ
いて私は生きているんだという感謝の気持ちもわいてきます。
でも、このすばらしい生命をはぐくむ雨も、昔と今では違っ
ています。大気汚染によるよごれです。



オオムラサキ「群馬国蝶オオムラサキの会」とゴルフ場問題東毛ネットワ
ーク」合同の昆虫観察会に参加させて頂いた。なだらかな丘
陵地になっている八王子山系の山ふところに抱かれた菅塩地
区の奥に、新芽の美しい緑の樹木に囲まれた「入の堤」貯水
池があり、その辺りに県内各地から30人程集まりました。
この丘陵地に隣接するゴルフ場を建設しようと計画し県の事
前協議を終了しているそうです。地元の須藤さんの案内で高
坪山を歩きました。エノキ、はんの木、コナラ、クヌギ等の
広葉樹が生え、オオムラサキ、ミドリシジミ、ムラサキシジ
ミやカブト虫などたくさんの昆虫の生息地になっています。
オオムラサキの幼虫がエノキの根元の枯葉の中にいました。
これから樹を登って新芽を食べて大きくなり蝶になって飛び
立つでしょう。美しい自然には似合わない空き缶やゴミの山
が大変気になりました。産業廃棄物の捨て場にならないよう
に監視する必要も感じました。

地名 太田市の地名はいつ頃名付けられたのだろうか。万葉集に
出てくる「ニイタカヤマ」「オニヒタヤマ」と言われた「金
山」が最も古そうである。人の住む集落としての地名で現在
の「大字」に相当するものとしては、荘園が形成されていっ
た平安末期頃ではないかと思われる。1170年の「新田御
庄嘉応二年田畠在家目録」によると、太田地内の「郷名」と
して17カ所出てきます。それからしばらくすると現在使わ
れている「大字」の地名がほとんど姿を現してきます。です


から800年以上の歴史をもった地名ということが出来ます。
その間に新しい村が出来たり、消えていった地名や村もあり
ました。今度太田市は地名から大字を削除して町にする「町
名変更」を計画しているようです。数百年間も生きてきた地
名ですので、行政の都合だけでなく文化的伝統を重視し、地
名はそのまま残すことを基本として住民合意のもとにすすめ
てほしいと念願するものです。

はるかな尾瀬 夏がくれば思い出す、はるかな尾瀬、遠い空・・・。
 尾瀬ヶ原の花は6月の上・中旬頃、残雪のうちにザゼンソ
ウが咲き、すぐに尾瀬名物のミズバショウに移る。6月の下
旬から7月のはじめ、水の浅い所にリュウキンカが黄色い花
をもりあげるようにつけ、レンゲツツジの大群落で尾瀬ヶ原
全体が紅にかすむかと思うと、上・下旬にかけて見渡すかぎ
り、ニッコウキスゲの黄色が圧倒し、この間をヒオウギアヤ
メやカキツバタの紫やコバケイソウの白い花が彩の変化を与
える。8月に入ると黄色のミズギク、紫色のサワギキョウが
美しい。池では7月はじめミツガシワが目立つが、やがてオ
ゼコウホネや睡蓮の葉におおわれて美しい花を浮かべる。8
月の半ばにはすでに秋色が濃く、寒さの早い年には9月の末
に周囲の森の紅葉を池に映す。尾瀬への入山者の増加、山小
屋の排水などの問題は山積しています。尾瀬を愛する者の一
人として、夢に描くだけの登山にしようか。



三つの防空壕 暑い夏と共に47回目の終戦記念日がきた。私の住んでい
る所は中島飛行機の社宅がたくさんある地域でしたので、B
29の空襲をよくうけました。我が家には三つの防空壕があ
り、必ず三つのグループに別れて入った。それは誰かが生き
残れるように考えたからだ。国民学校3年生の終戦まで空襲
が続いた。ウォン、ウォンという腹にひびくB29の飛行機
の爆音。照明弾があたりを明るくする。爆弾が投下される。
ヒュル、ヒュル、ヒュルという爆弾についている小さなプロ
ペラの音がする。どこに落ちるのかな、ズズウン。ああ助か
った。一番上の姉の夫はビルマ(現ミャンマー)のインパー
ル作戦に参加し、そこで戦死した。遺骨は帰ってこない。遺
骨だといってきた白木の箱の中には、ミカンの皮と石ころ一
つだけだった。姉は小学生の私に墓に入れる前に、こっそり
と箱を開けて見せてくれた。自衛隊の海外派兵の動きが緊迫
している現在、暑い夏は続きます。

重陽の節句 9月9日は五節句の一つである「重陽の節句」である。菊
の節句とも言われるが、秋の七草の草花のなかには何故か菊
の花は入ってない。重陽の陽は「生」を意味し、九が陽の数
であることから九が重なるこの日を不老長寿の願いをこめて
祝った。平安初期には恒例行事となり、公家は天皇に詩歌を
献上し、庶民は栗飯をたいて菊酒を飲み、菊人形などの見せ
物がでてにぎわったそうです。現在では語呂あわせで「救急
の日」となっており、こちらの方が知られています。


9月11日は十五夜。久しぶりに美しい満月を観ることが出
来た。残暑もきびしく雨もふらなかったので、秋の収穫物の
サツマイモとマンジュウだけをあげて、ススキや萩、桔梗と
一緒にかざり、お月見をしました。9月15日は「敬老の日」
です。88歳になった母の長寿のお祝いをしました。自分で
育てた作物を食べ、普段の健康に気をつけ、救急車の世話に
もならずに長生きしたいものです。

ガイア計画 谷中村は葦のなか。人間の身丈より高く茂った葦のなかに
村人たちの生活の跡がいくつかあります。延命院の墓石群は
真紅の彼岸花のなかに埋もれるように点在しています。
 豊かな実り多い耕地だった谷中村は明治12年頃から足尾
銅山の鉱毒による影響が出始め、農地は荒廃していきました。
洪水による被害の広がりに明治政府は原因である銅山はその
ままに、買収に応じない農民を警察や憲兵を使って追い立て、
それに対して農民と田中正造は、20年間も戦いました。
 こうしてつくられた33平方キロの渡良瀬遊水地は、現在
その一部約5平方キロを五つのゾーンに分け一般に開放して
います。
 大手建設会社37社による「渡良瀬エリア再生基本計画」
(ガイア計画)なるものが今、問題になっています。足尾町
に総処分量4億5000万トンの一般及び産業廃棄物を約5
平方キロの土地に処分しようというものです。
 大地の女神「ガイア」が計画に賛成するでしょうか。



禁猟区 東の空が茜色にそまり、あたりが少しずつ白んできました。
川面から霧が立ちのぼり、カモが2羽3羽と群れをなして泳
いでいます。若者が白い息をはずませ、犬を連れた老人、話
しながら散歩をたのしんでいる人などが通り過ぎていきます。
ここ石田川と蛇川の合流地点、牛沢地内に10月のはじめ頃
より5羽の親子のコハクチョウが飛来しています。「去年も
見たという人もいるよ。もう少し広い沼地でもあればいいが、
途中の休息地ではないかな。永く居ついてくれればいいが」
と犬をつれた老人がいいました。去年秋より周辺が禁猟区に
なり、カモ類や小鳥たちが住みつくようになりました。利根
川の方から、まるで市街戦でもやっているような銃をうつ音
がさき程より聞こえています。11月15日は「解禁日」。
禁漁区に指定される前、学校帰りの子どもたちが給食の残り
のパンで餌付けしたカモが、ハンターにうち殺されたのを悲
しんでいたのを思い出しました。
田中正造翁 紅葉樹が全部落葉し、艶のある柿の実もオナガドリ、ムク
ドリやヒヨドリたちが集団でやってきてアッという間に食べ
つくしてしまいました。毎年、小鳥たちのために柿の実を数
個残しておくことにしています。
 もう師走です。
「上州名物空っ風も最近はあまり吹かなくなったけれど、そ
のかわり不況風が吹きまくっているので寒いねぇ」「5億円
や10億円という庶民にとっては目玉が飛び出るようなお金
がポンポンとび出す話題がチマタにあふれているけれど、我


々は5万円や10万円のことでヒーヒーしている。まったく
嫌になるねぇ」
 壁に1993年の田中正造翁のカレンダーがはってありま
す。明治30年に書かれた手紙の文章があります。
「さてさてよの中も腐レハ腐るものニテ今は官も民も西も東
も皆腐レタルモノノ如し日本はダメダメニ候。希クハ第二の
日本ヲ構造スルノ御決心ヲ以テ日本国民の責務トシテ応分ノ
事ハ諸氏江御訓示相成度候」


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