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四国八十八ヶ所巡り

(第41番札所 ~ 第50番札所)
平成20年8月13日~14日
第41番札所 龍光寺
 大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。そして、創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となったようです。

龍光寺に向う石段


龍光寺・本堂


第42番札所 仏木寺
 大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置したのが始まりという。その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめたようです。

仏木寺・仁王門


仏木寺・本堂


第43番札所 明石寺
 6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

明石寺は石段の上にて


第44番札所 大寶寺
 百済から来朝した聖僧が携えてきた十一面観音像を、この山中に安置していた。飛鳥時代になって、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。

大寶寺へ向かう


大寶寺・本堂


第45番札所 岩屋寺
 岩屋寺は標高700mの巨岩の中腹に埋め込まれるように、堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされたという。

岩屋寺・山門・・・奥に本堂


第46番札所 浄瑠璃寺
 浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場であり、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。

浄瑠璃寺・本堂


第47番札所 八坂寺
 飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名となった。また、弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになったという。


八坂寺・山門

八坂寺・本堂


第48番札所 西林寺
 聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際、この寺に逗留。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。

西林寺・仁王門


西林寺・本堂


第49番札所 浄土寺
 天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであったという。

浄土寺・仁王門


浄土寺・本堂


第50番札所 繁多寺
 天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。そして、弘仁年間(810〜24)弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。

繁多寺・本堂


第41番札所~第50番札所のスライドショー

(第51番札所 ~ 第60番札所)
(第61番札所 ~ 第70番札所)
(第71番札所 ~ 第80番札所)
(第81番札所 ~ 第88番札所)


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