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四国八十八ヶ所巡り

(第51番札所 ~ 第60番札所)
平成20年8月14日~15日
第51番札所 石手寺
 日本最古といわれる道後温泉の近くにある石手寺は神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純がこの地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となったお寺だという。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。 その後「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。

石手寺と三重塔


第52番札所 大山寺
 開基は真野長者とされる。その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。

大山寺に向う・・・


第53番札所 円明寺
 天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。のちに、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移されたという。圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。

円明寺・山門


第54番札所 延命寺
 養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810〜24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。


延命寺・山門

延命寺・本堂


第55番札所 南光坊寺
 大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められたという。四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。

南光防寺・仁王門


第56番札所 泰山寺
 弘法大使は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。泰山寺はその後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが、度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。

泰山寺


第57番札所 栄福寺
 嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。栄福寺は弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。

栄福寺の本堂に向う


栄福寺の境内にて・・・


第58番札所 仙遊寺
 創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。

仙遊寺・本堂


第59番札所 国分寺
 国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。

国分寺


脇屋義助の霊廟へ
 異郷の土で、新田の衆は何人位の人数が生きていたのだろうか、どういう想いで、この異郷の地で死んでいったのだろうか。脇屋義助(新田義貞の弟)の墓に詣でてしばし黙祷。涙・涙・涙・・・


脇屋義助の霊廟道


脇屋義助廟堂の由来書




脇屋義助のお墓

家来の墓


第60番札所 横峰寺
 白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住み、弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされる。このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。

横峰寺・本堂


第51番札所~第60番札所のスライドショー

(第61番札所 ~ 第70番札所)
(第71番札所 ~ 第80番札所)
(第81番札所 ~ 第88番札所)


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